ダリへの道も一歩から

天才と言われている絵画の巨匠は本当に天才なのか?努力によって才能を開花させることはできるのか。

幸福か不幸かを決定するのは誰だ。

自分が幸福でないと感じるとき。

つい、他の人と比べてしまう。

私はアラフィフの専業主婦だ。

少し前までパートで働いていた。

一人娘は高校を卒業し、この春浪人生となった。 

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幸福と不幸の歯車は回る

道行く人、犬の散歩中の人、スーパーのレジ打ちの人。

自分と同じくらいの年代の、似たような境遇と思われる人と自分自身を比べてしまう。

隣に住むあの人はどうだろうか。

エレベーターに乗ってきたこの人はどうだろうか。

この人の経済状況はどのくらいか。

あの人は義両親とうまくいっているのか。

情け無いことだが、 比べた相手よりも自分の方が少しでも不幸ではないと感じられると、ほっとする。

相手よりも自分の方が『まだまし』だと思えるのだ。

 

でも

自分の観点から見た比べた相手がたとえ自分より幸福でなく思えたとしても、実際にその人が幸福でないとは限らない。

たとえ、自分より幸福でない人を見つけたとしても、自分が幸福になれるわけでもない。

幸福か不幸かは、他人との比較によって決定するわけではないからだ。

 

では何が幸福か不幸かを決めるのか。

現代日本に住む私自身に、幸福不幸のどちらのラベルを貼るかを決定するのは私自身だ。

私が自分を幸福だと判断、または不幸だと感じ取らせる。

今、自分が自分を不幸だと感じているのなら、それは私がしているのだ。

 

知り合いの『あの人』よりも自分の方が『まだまし』だったとしても、だからこそ幸福になれるわけではない。

だから、誰かと比較しても仕方がない。

 

でも、そんなこと言っても。

じゃぁ、素の気持ちで。

今の状態そのまんまの気持ちで。

自分が幸福かな、それとも不幸かな。

と考えた時。

自分をどちらにラベリングするかは正直悩む。

『幸福なこと』と『不幸なこと』、その両方から私はできていると感じるからだ。

 

ただ

『自分は幸福だ』って思っていた方が、絶対的に生きやすい。

生きていると色々あって。

嬉しいことも、楽しいことも、ほんわかすることもたくさんあるし、悲しいことも、辛いことも、怒れることも同じようにたくさんある。

 

『幸福』だと思えることを数えて生きる方が、『不幸』へとつながる気持ちを引きずるよりも生きているのが楽しい

 

人生100年だと政府は言う。

100年生きるために退職するまでに1000万円ためろという。

その分の資金を稼げ、きちんと働け、節約して生きろと様々な方法で私に伝えてくる。

 

そんなお金を貯めることはできるだろうか?

そもそも、年金でどのくらい生活できるのか?

足りない分のお金がたまらなかったらどうしよう。

住むところは確保できるかな。

ご飯はちゃんと食べられるのかな。

病気しないで元気だったとして、何歳まで働けるかなと、不安はつきない。

 

つきない不安はたまりにたまって、大きな不安となって私に襲いかかってくる。

大きな不安に囚われた私はずるずると『不幸』へと引きずられる。

 

『不幸』のサイクルが私を捉えようと長い触手を伸ばしてくるのを感じる。

 

でも。

一歩引いて考える。

今、私は生きているじゃないか。

明日の私はわからないが、今この瞬間は確かに生きている。

明日も生きたいと考えるから不安になるのだ。

不安になるから不幸になるのだ。

明日への不安が無ければ、私は幸福でいられるのではないか?

明日も生きたいと考えるのではなく、今生きていることに満足しよう。

今現在の私はここにいて、身の危険を感じるわけではないし、ひもじくて死にそうとかでもない。

不安のつるを振り払ってさえしまえば、そこに安穏と佇む私自身が現れる。

今安楽に生きている、この瞬間に『幸福』というラベルを貼ろう。

そうすれば、生きていくことはもっと楽になってくる。

 

今を積み重ねた先に明日があると考えていれば、私の明日には幸福のラベルが貼られているはずだ。

そうして日々を積み重ねていけば、いつか『幸福』というラベルをつけた自分自身を『自分は幸福なのだ』と実感できる日がくるに違いない。